第一次上田合戦とは?

上田城 東虎口櫓門

真田家の有名な戦いとして知られているのが上田合戦です。この上田合戦は上田城を舞台に戦われたものですが、第一次上田合戦第二次上田合戦の二つがあります。

そこでここではまず第一次上田合戦についてから見ていきたいと思いますが。なお第一次上田合戦は徳川軍VS真田軍の対決です。当時の真田軍は真田幸村(信繁)の父真田昌幸が指揮をとっていました。

 

戦力と結果

この第一次上田合戦ですが戦力的には徳川軍7千あまりに対し、真田軍はわずか2千足らずでした。圧倒的に数の上では徳川軍が有利でした。

しかし結果はと言えば全く逆になりました。すなわち、徳川軍の戦死者は1300人、対する真田軍はわずかに40人でした。圧倒的に人数で劣っていたはずの真田軍が見事徳川軍の撃退に成功し勝利したのです。

そして第一次上田合戦の勝利により真田昌幸は知将としてその名を知られることになります。

 

戦いの原因

真田幸村像 上田駅

第一次上田合戦が起こった原因ですが、これは徳川と北条が同盟を結んだことに始まります。同盟の条件として当時、真田の領土になっていた沼田を北条に渡すということだったらしいのです(以前真田と北条は沼田に関して争っていました)。

しかし、沼田は真田昌幸が苦労してとった領土です。これを北条氏へ引き渡すようにと徳川家康に言われたのに対し、真田昌幸はそれを拒否したのです。

そのことに怒った徳川家康が真田を討伐するために鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを派遣したと言われています。

 

戦いの進行

④上田城ベストショット

天正13年(1585年)に第一次上田合戦は起こります。その進行は以下のようになりました。

  1. 神川周辺で真田軍と徳川軍が戦闘。真田軍は徳川軍を上田城に引き寄せるために、戦いながら少しずつ上田城へ退却する。
  2. 徳川軍は、真田軍が逃げていると勘違いし上田城二ノ丸まで追撃する。
  3. 上田城へ近づいた徳川軍へ上田城から一斉射撃
  4. 退却しようとした徳川軍に対して城内から真田軍が追撃する
  5. 徳川軍は神川まで撤退。しかし昌幸は大雨で増水していた神川の上流を事前にせき止めていた。徳川軍が撤退してきたところで堰を切った。
  6. 一気に大量の川水が流れてきて徳川軍は濁流にのまれてしまい、溺死者多数。
  7. その後、徳川軍に井伊直政の援軍が到着し両者にらみ合いになるも、結局ぶつかり合うことはなく、徳川軍は撤退

結果、真田昌幸の勝利となりました。

 

真田幸村(信繁)は何をしていたのか?

この第一次上田合戦、真田幸村(信繁)は何をしていたのかです。

この時幸村は上杉へ人質として送られていることから合戦には参加していないのでは?という意見がある一方で、上田軍記などでは参戦していたとも書かれています。

どちらが真実なのでしょうか?

 

 

 

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