真田幸村の人質時代(上杉家)

真田幸村(信繁)花押

(真田幸村花押 歴史の丘)

 

真田幸村ゆかりの地で有名なのは長野県の上田市や大坂城、九度山ではないでしょうか。でもそれ以外の場所もあります。

真田信之・川中島の合戦で有名な海津城(松代城跡)、上杉謙信の居城春日山城などです。

真田幸村と関係があります。それが何かと言えば真田幸村の人質時代です。

 

上杉家の人質として

真田幸村(信繁)が人質になるまでのこと、

誕生日(真田幸村の誕生日は?出生の謎
出生地(真田幸村(信繁)の出生地は?

などなど。いろいろと謎があります。諸説あります。どこで何をしていたんでしょう。

そんな真田幸村(信繁)ですが・・・

はっきりとした歴史の表舞台に初めて出てくるのが人質時代です。天正13年(1585年)8月です。

当時の情勢はというと、真田幸村の父である真田昌幸は当時、徳川家康に服従していました。そんな中、徳川家康が真田昌幸に対し沼田を北条氏に渡すよう命じます。

しかし、真田昌幸はこれを拒否しました。当然断ったりすれば徳川家康との関係は悪化します。これが原因で怒ったのが第一次上田合戦です(第一次上田合戦とは?)。

上田城ノート

 

ただ、そうなると小大名である真田家が生き残っていくためには、別の大きな力に頼る必要があります。そのために真田昌幸が頼ったのが上杉家でした(当時は上杉謙信は死去しており上杉景勝の時代です)。

でも、簡単にはいきません。上杉景勝に庇護してもらうためには人質が必要になります。それで真田家から人質に差し出されたのが真田幸村だったのです。

ちなみに真田幸村(信繁)の生まれた年が、永禄10年(1567年)とすれば数え年で19歳、永禄13年(1570年)とすれば16歳の時の話です。

 

海津城(松代城)と真田幸村

人質として上杉家に送られた真田幸村(信繁)は最初に海津城に来たようです。現在の海津城については(松代城)をご覧ください。

真田幸村(信繁) 海津城

 

「矢沢文書」によると、天正13年(1585年)8月、幸村は人質として海津城に入ったとされています。このとき矢沢頼幸と騎馬5名、足軽12名が幸村に従っていました。

また上杉景勝の家臣であり海津城主だった須田満親が真田家の重臣にあてた書状にも「今度御証人として御幼若の方越し御申し、痛み入り存じ候。」とかかれています(天正13(1585年)年8月29日)。

 

春日山城と真田幸村

海津城に入った真田幸村はその後、越後の春日山城へ送られ、上杉景勝と会うことになります。上杉景勝からは非常に気に入られたようで、人質としては高禄の千貫を知行として与えられたと言われています。

ただ天正14年(1586年)真田幸村は、今度は豊臣秀吉の人質になってしまいます。上杉景勝の人質になって1年後です。なかなか大変です。

 

疑問

真田幸村は直江兼続と会っているのでしょうか?
真田幸村は春日山城もしくは海津城、どの辺に住んでいたのでしょうか?

謎です。

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